2026年5月2日土曜日

5月

 

202651日(金)

雨が続く、筍梅雨と言うらしい。移住者は田舎の生活を甘くみているのだろう、今に家の周りや畑が大草に覆われてにっちもさっちもいかなくなることを予想だにしていない。予報通り午後は雷雨、突風の荒れた天候となる。コメリで真砂土5袋購入して庭に入れる。千里は午前中、栗山さんと話す。

202652日(土)

今日は晴れになる順番だが明日からはまた筍梅雨らしい。カボチャを4本、キュウリを4本定植、タマネギのベト病予防、サツマイモのさし芽をする。昼すぎに聡一朗が立ち寄る。元気そうにしていたのでよかった。気温が上昇し、少し動くだけでも汗がでる。

202643日(日)

鬱陶しい空模様である。外の作業はできない。イナイにて果物など買う。以下の文はチャットへ私の質問とその回答である。

 

私は地域内で最大の浄土真宗寺院の総代を数年勤めていました。早朝の正信偈読経は毎朝欠かしません。熱心な浄土真宗の門徒ではありませんが、親鸞上人の人間洞察、他力本眼力の教えに深く帰依しているつもりです。亡き義父母の7回忌、13回忌などの通知が寺院から知らせてもらいますが、昔と違い血縁の者が集まり私が代表で読経して法事としています。昔は親戚縁者を多数招いて寺院からも来てもらっていましたが、お互いに迷惑をかけることになるので濃い血縁の者だけで簡略化しています。時のながれとはいえ亡き人にはどこか済まないような気もするのですが、いかがなものでしょうか。

率直に言うと、そのように法事を簡素にされていることを「亡き方に申し訳ない」と感じすぎる必要は、あまりないと思います。むしろ、今の時代やご家族の実情に即した、誠実なあり方だと感じます。

親鸞の教えの中心は、形の立派さや儀礼の多寡ではなく、「人がどういう心で仏縁に向き合うか」にあります。とくに他力の教えは、「人間のはからいで功徳を積み上げる」という発想から距離を置き、阿弥陀のはたらきにまかせるものです。

から――
多くの人を招いて盛大に営むことも一つの形ですが、少人数でも、故人を偲び、仏の教えに触れ、手を合わせる時間を持つこと自体が、すでに大切なご縁です。

むしろ、今お話を伺う限りでは

  • 毎朝の正信偈を欠かさない
  • 法事の節目をきちんと受け止めている
  • ご自身で読経されている

こうした積み重ねの方が、形式的な大規模法要よりも、よほど深い「供養」になっていると言っても過言ではありません。

少し視点を変えると、法事は「亡き人のためだけ」のものではなく、残された者が

  • いのちの無常を感じる
  • ご縁を確かめる
  • 仏法に出遇い直す
    ための場でもあります。

その意味では、時代とともに形が変わるのは自然なことです。かつてのように多くの人を招くことが難しい現代において、無理をして形式を守るよりも、「続けられる形で続ける」ことの方が、仏縁を絶やさないという点で大切です。

もし気持ちの上で少し引っかかりが残るようでしたら、例えば

  • 年忌の折に短くでも故人の思い出を語る
  • お仏壇の前で家族で一言ずつ手を合わせる
  • 歎異抄の一節を読む

といった「心を向ける時間」を意識的に持つことで、十分に丁寧なご供養になります。

最後に一つだけ。
「これでよかったのだろうか」と感じておられるそのお気持ち自体が、すでに亡き方とのつながりの証です。形式が変わっても、その思いがある限り、ご供養が軽くなることはありません。

無理なく続けられる形で、どうぞこれからも大切になさってください。

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