2025年2月1日(土)
稲刈りした後、乾燥のため束をくくる作業の夢を見る。若者や娘に束のくくり方を教えていた。終日うっとうしい空模様、枯れ草をたき火して処分する。上の田が乾いていたのでトラクターで耕運する。2月になった、日々是好日、傘寿を迎えることになる。半藤さんの著書を読み昭和20年の夏は我が国も今のウクライナやガザよりもひどい状態だったのだとつくづく思うポツダム宣言を受け入れず天皇が平和希求の人でなかったなら日本は消滅するか分断国家になっていただろう。
2025年2月2日(日)
誘われて千里は佐藤愛子さんの映画「90才何がめでたい」を観に行く。ダイコンのスジ肉煮が美味しく炊けた。伊和に寄る。宮城谷昌光著「風は山河より」を読む。世良君、軽トラ返却、気を使わせた。
2025年2月3日(月)立春
明日から立春寒波がしばらく続きそうである。今日は比較的穏やかな天候であった。岸根の木屋のまわりの萱を刈る。手鋸の刃を交換する。シノンドの道脇にはえている竹を自然薯支柱用に採る。バラの剪定。「ポツンと一軒家」に出てくるおっさんではないが田舎にはいっぱいすることがある。
2025年2月4日(火)室温3℃
寝付くまでにトイレに3回ぐらいは行く。夜中に体内の水分が枯渇するのではないかと思うほど排尿する。それだけ他力によって血液中の老廃物が腎臓で濾過されているわけだ。この働きが失われたらたちまち生命は閉ざされてしまうのだ。岸根の木屋周囲の萱を束ねる。アリナミン製薬に礼状、神戸新聞に川柳を送る。創君とあおいが来る。
2025年2月5日(水)
千里は安富診療所へ健診に行く。今季一番の寒気がやってきた。午後から粉雪が降る。屋内で冬眠するしかない。宮城谷昌光著の本を読む、習字、水墨画、テレビを観るだけ。
2025年2月6日(木)室温1℃
冷え込んでいる。しかしエアコン、電気毛布、石油ストーブで暖をとることができる、何と結構なことであるか。千里はウォーク、午後は社会大学に出席する。萱の結束、モミジ、モクセイの剪定、漬物のカブラを掘り凍らないように電気シーツを敷く。
2025年2月7日(金)室温0℃。
今冬一番の冷え込み、屋外ではマイナス6度まで下がる。昨日収穫していたカブラの塩漬けをする。水道水よりもカラシナのつけ替えするのに樽の中の方が冷たかった(塩水はマイナスでも凍らないからだろう)肉親の呼び方で「じいじ、ばあば」とか「おとん、おかん」などとテレビでよく聴くがこんな呼び方はダメだと思う。「おじいちゃん、おばあちゃん」「おとうさん、おかあさん」と、ごく自然に呼ぶ方がどれだけいいかと私は思う。
2025年2月8日(土)
最強の寒気団南下により朝の積雪15cm、義母ともえの命日、すべては諸行無常、時空の変化はとどまることなし。雪は終日降り続いて夕方には40~50cmに達した。家から出られずにTV、読書、三度の食事をするのみ。
2025年2月9日(日)
圧雪が約40cm積もっている。今日も巣ごもりすることになる。昭和20年2月といえば太平洋戦争末期、東京、大阪、神戸など本土の主要都市がB29による無差別攻撃を受けた時期である。廃墟から80年、大きな時代の変遷とともに今に至った。少し雑談、私がこの世に生を受けた背景には大きなドラマがあった。父栄三郎の先妻コメが三女昭子を出産した後、産褥により5人の子どもを残して急逝したのである。一方母リンは京都に住まいしていたが夫の松本重治郎が幼い娘八重子を残して病没したのである。リンは実家である一宮町三方町西山家に戻ったが兄健一は既に亡くなっていた。そして義姉家族に世話になるわけにはいかず、幼い娘と自分が生きて行くために苦労覚悟で多くの子どもを抱えた父との再婚を選択したのである。父栄三郎には兄新市と弟戸三郎、妹ハル(中野仙吉の妻)、妹タミ(湯本製作所、喜代蔵の妻)がいた。亡妻コメには兄中路廣吉、姉野崎オノ、姉中野タミ、妹小田ヨネがいた。これらの親戚縁者のほとんどが伊和に居住して濃密な親戚付き合いをしていたので母の苦労は相当であったと思われる。母も私を出産後、大出血を起こし、しばらく叔父戸三郎の妻カナが私の乳母をしてくれたということを後日叔母から聞いた。生まれた家は今清吾の素麺工場のある場所で父がそこに新宅分家していた。5才頃までその家で過ごしたが、父は家族を養うための田圃を買うためにその家を目叶さんという洋服仕立屋さんに売却した。そして隣接していた信用金庫の蔵を改造してそこに移り住むことになった。(中学校3年までその家に住む)父は薪炭の製造、売買をしていたのでその当時、数少ない木炭トラックを有していた。(このトラックも波賀町の木原造林に売却したが代金をなかなか払ってもらえなかった)4~5才の頃、父に連れられて村の人々と大阪の肥料会社見学に行った。終戦から日が浅かったので沿線は焼け跡の黒っぽい印象が残っている。大阪駅に着くと浮浪者の群れとアメリカ進駐軍の兵隊やジープで埃っぽかった。肥料会社に行くまでに何回も手こぎの船に乗って河を渡った。(橋も破壊されていたのかも)肥料会社に着いて昼食にエビフライがでたが今でもその美味しさを覚えている。
2025年2月10日(月)室温0℃大雪の後の放射冷却で随分冷え込んだ朝だ。新しい運転免許証を安積交番で受け取る。昨日、山崎高校の同級生、村上征雄君(彼の父は旧山崎町長で、彼自身も大丸百貨店の香港や上海支店の重職を勤めていた)から電話があり5月に同窓会をしたいので私に写真係をしてほしいとのこと。彼の電話によると私と小学校から中学校、高校、大学と同窓であった植木君が亡くなったという情報を聞く。植木君は宝塚で中学校長やアメリカの日本人学校の校長をしたあと70才の時、理学療法士の資格をとって活躍していたのだが彼も寿命が尽きたのだろう
2025年2月11日(火)建国記念の日
石破総理に対していろいろと批判する勢力があるが傲慢であった安倍政治を一掃してもらいたい。森友や加計そして桜を観る会など人事をカサにして司法を含めて嘘と言い逃れを許した政治に終止符をうってもらいたい。昼前に鷹谷母娘がまさかの来宅、そこへ田井夫婦も来宅し義母の命日のお参り。思いがけぬ客でバタバタしたが、しばらく談笑し夕方帰宅する。
2025年2月12日(水)
昨日の天気予報では午前中は高気圧に覆われて晴れるといっていたが朝から雪や霙が降る。千里は百歳体操に参加する。山崎のマックスバリューにて買い物をする。図書館にて宮城谷昌光著「風は山河より」の第2巻、「特攻の聲」など借りる。
2025年2月13日(木)室温4℃
「我中常在阿弥陀仏」私の造語である。私の中に私を生かすために物質を超越した不可思議の存在、阿弥陀仏が四六時中存在されているという意味である。その故は幾多の先端半導体を駆使したA Iといえども私の眼球、耳、全身・・から脳に至る感覚神経や眼識、耳識などの運動神経システムなど人体諸機能の精妙なはたらきを到底構築し得ないだろう。即ちそれを可能ならしめているのは阿弥陀仏の存在を認める以外にない。午後水墨画教室に出る。夕刻大久保市会議員が来宅する。
2025年2月14日(金)
今日は久しぶりの暖かい日射しに恵まれた。芽出ししていたエンドウを移植して防寒の布をかける。(寒さでまた枯れるかもしれない)御津、室津から相生の万葉岬まで回る。快晴で小豆島まで望むことができた。17日以降また寒波がやってくるとのこと。最近不思議に思うのは夢の舞台がいくつか決まっていてその舞台の情景が現実の意識としてはっきり思い起こせることである。例えば河東の道で宍粟橋の手前、山崎の旧神姫バス停車場の賑わい、波賀中学校裏のお宮、安賀の山道、伊和神福寺の裏山墓地、伊和の生家、安黒山の頂上付近絶壁、などの風景が明瞭に頭の中に残っている。
2025年2月15日(土)
朝の正信偈読経は暗唱していて経文を思い起こそうとしなくても自然にスラスラと口から出てくる。これも他力(本願力)に依るものだろう。千里は雛人形を飾る。BSで映画「八日目の蝉」を観る。実際の事件を題材に書かれた小説の映画である。主な舞台は小豆島の素麺屋さんで子役と誘拐した偽母の演技がよかった。光が立ち寄る。
2025年2月16日(日)
花粉の時期が近づいた模様。こころなしか鼻がむずむずするようだ。今年は昭和100年、昭和の初めの頃、日本の人口は5900万人で今の半数であったとのこと。でも当時の田舎はもっと賑やかであった。いかに人が都市に集中してしまったことをあらわしている。山崎の旬彩蔵で味噌つくり用の糀を買う。自然薯支柱の竹を切る。
2025年2月17日(月)
自動車に給油、泥おとし洗浄。外出はせず。自然薯支柱用の竹をシノンド道端で伐採する。習字、読書、テレビ三昧。宮城谷昌光の本は面白いが登場人物が多すぎてその関係が複雑でつかめにくい。寒波の南下で夕方には激しく雪が降り出す。明日の厄神祭は大変だぞ。
2025年2月18日(火)
今季2度目の大寒波。数cmの積雪、この寒さでは厄除祭は参拝者が少ないと思われる。役員の皆様も大変だと思う。朝、スマホ、本、衣服・・身の回りに存在するモノを見てふと思う。あらゆる物体は自然にそこに在るものではなく必ずそれらを作った人が居るということである。あらゆるモノには必ず作者が存在する。では生物の作者は誰か、親だろうか?いや親はかけがえのない縁ではあっても作者ではない。
2025年2月19日(水)
朝は積雪15cm、今も降り続いている。昨夜の夢の舞台は波賀中学校、廃品回収で各地区集めた物をとりに行く役目が私と西岡君、西岡君は車で先に出かけた、私は何故か自転車で行く。荷物をくくるロープを探してから出かける。着いたのは原部落、「先生、遅かったなあ○○君が『まだ来ない』とブツブツ言っているよ」と苦情を聴く。集めた物の中に梟があり、片手で梟の足を持って帰ろうとしたが自転車を片手で運転すれば途中で梟を逃がしてしまうだろうなと案じたところで目が覚めた・・変な夢だった。
2025年2月20日(木)室温3℃
放射冷却で冷え込んでいる。日射しは強くなった。千里は役場で調理講習に行く。おでんを炊く。二人とも安垣で散髪する。宮城谷昌光著「風は山河より」第2巻読了。岡崎の松平広忠、野田の菅沼新八郎家を中心に三河、尾張、遠州など東海地方の戦国時代の攻防の物語である。登場人物がやたら多く、難しい熟語が駆使され少し読みづらいがよくもこれだけ研究取材されたと思う。
2025年2月21日(金)
千里は午後コーラスに参加する。来週から暖かくなりそうなのでいたまないうちに食べきれそうもないカラシナの糠漬けを姉に持って行く。外の作業はできないので読書三昧、車社会なのと寒さで外で人を見かけることがない。千疋屋の生チョコ食べてしまう。やっと融けたのにまた大雪の予報が出た。先日定植したスナックエンドウの苗は防寒対策が効いて根付いたようだ。
2025年2月22日(土)
今朝は積雪なし、放射冷却ですべて凍てついている。予報されたほど雪は降らなかったが寒風が吹きすさぶ。PHPのクイズとアンケートに応募する。次の市長選、市議会議員選挙は何人か名乗りをあげて事前にポスターなどが貼られている。騒がしくなるだろう。
2025年2月23日(日)
味噌づくり、用具、材料を全部千里が準備万端整えている。雪が降っていないので8時に大豆1.5kgを炊き始める。糀3kg、食塩900g。煮豆をこなすのに餅つき機を使う。餅つき機、ハタソリ、かまど、樽、袋、消毒液・・などの準備と後始末が大変、手作り味噌が美味しいと言っても専門家の味噌で充分と思うのだが。
2025年2月24日(月)
雪が舞う寒い3連休の3日目である。トランプがウクライナ戦争終結に向けて動いている。ロシア、ウクライナ双方とも人間をもうこれ以上殺し合うことは即時止めなければならない。兵庫県の議会も自死者が二人も出ているのにその背景が判然としない。石倉ネギ発芽用のポットに培養土をつめる。モミジ剪定枝の処理。
2025年2月25日(火)
高気圧に覆われて昨日とは一転して快晴の一日。山崎イオンにて食料品購入する。魚屋に売ってある「ほぼカニ」の美味しさに驚く身だけでなく匂いもカニだ。春キャベツを10本植える。自然薯を掘る。バラの除草。脳トレの一環として神戸新聞文芸に川柳を投稿、きっと採用は無理だ。
2025年2月26日(水)
千里は百歳体操に行く。千種の「エイガイヤ」へ行くが定休日。鳥ケ乢トンネルを抜けると道路脇の雪の量が波賀町側より格段に多かった。今日はもっと暖かくなるのではと思っていたが、寒かった。石倉ネギを播種、キャベツに液肥、椎茸収穫。
2025年2月27日(木)
2月は逃げる、はや月末である。21年前に予定日よりさくらが1ヶ月早く生まれた。国道の気温表示は15℃を指す。タマネギ畝や花畑をコマメで土搔き、除草する。今日は少し都会の雑踏の空気を吸う。
2025年2月28日(金)
2月の晦日となった。外出は杉ケ瀬のローソン、食彩館でサツマイモを買う。今からの時期、サツマイモが一番美味しい。千里と私との合作川柳を投函する。花畑とタマネギ畝の除草
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